今月の法話 2025年2月

これでよいのだろうか 立ち止まる時間を頂く仏のおしえ

 人が賢くなることを是とする現代にあって仏教、とりわけ浄土真宗は自らの愚かさに気づかせていただく教えです。
 仏教には自力聖道門(自分の力で戒律を守り修行を積み、煩悩を断って仏の悟りを開く)と他力浄土門(阿弥陀如来の救いによって浄土に往生し、仏の悟りを開く)があります。
 また、自力聖道門を出家仏教(捨家棄欲・肉食妻帯をしない)といい、他力浄土門を在家仏教(家庭に住み肉食妻帯をする)と言います。
 私が小さい頃、食卓を囲んだ際に、父が時折ご法義(生活の中で仏教の教えに出会い感じた事)の話をしていました。「人間というものは愚かなものだ…」、そうしみじみと語る父は日本軍が惨敗した激戦のノモンハン事件や、日中戦争に砲兵隊の一人として参戦しています。戦争の最前線で体験した戦争の悲惨さと人間のおぞましさ。また兵役を終えて寺に戻り現実生活の中で感じた自分中心に生きる人間の愚かさ、そしてその愚かさに気づかせてくれたお念仏の教え。妻や子と暮らす在家生活の中で自ずからと溢れ出た数々の言葉であった気がします。在家仏教とは家に在(あ)りながら嘆きと真実(お念仏)との間を生きていく、そういう世界なのだ、という事を教えてくれたのが私の父でした。
 親鸞聖人のお念仏の教えは他力浄土門であり在家仏教です。親鸞聖人は妻をめとり、七人の子供に恵まれる在家仏教を生き抜いた方でした。親鸞聖人もまたご自身の中に深い闇を抱え、嘆きや悲嘆と共に人生を生きていかれました。

浄土真宗に帰すれども(浄土真宗に帰依しても)
真実の心はありがたし(私の中に真の心は無く)
虚仮不実のわが身にて(愚かで実の無いわが身であり)
清浄の心もさらになし(清らかな心も全く無い)
 〈親鸞聖人:愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)〉

と詠われたのでした。
 闇は光によって破られます。闇が深ければ深いほど光は明るくその輝きを増していきます。自分の力で仏の悟りを開くことの出来ない私達。何事も自分の都合の良い様に考え行動し、自分の損得ばかりを優先し、他のいのちの犠牲の上に自分が成り立っている事に痛みを感じることも無く生きているのが私達の本当の姿と言えないでしょうか。私の抱えている闇に光をあて、お恥ずかしい自らの生き方に「目覚めよ」と常にはたらき続けて下さるのが阿弥陀さまでありました。
 長いようで短い私達の人生。時には立ち止まって阿弥陀さまの光を仰ぎ、自らの闇をみつめてはみませんか。

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