今月の法話 2025年1月

当たり前が有難いに気づくなまんだぶ

 胆振東部地震から6年が過ぎました。北海道全域が停電になるブラックアウトを私達は経験しました。お寺ですのでローソクは沢山あり、ガスでご飯も炊くことが出来ました。深夜電力で沸かしたお湯の残りでシャワーも入ることが出来ました。
 しかし、二日目はそうはいかず太美の温泉に行くと数時間待ちとの事。結局新篠津温泉まで行きました。自宅への帰り、所々で電気の灯火がともっているのを見ながら期待を胸にわが家へ帰り、スイッチをつけると照明がつきました。あの時ほど電気がある事の有り難さを感じた事はありません。
 昨年の元旦には能登半島地震があり、多くの方々が犠牲になり亡くなられました。被災した方々は住む家を失い水や電気を失い、仮設住宅で不便な日暮らしを余儀なくされています。長期化する避難生活で地域の絆を失い、孤立する人々も出ている事でしょう。
 私達は日々を安寧に過ごしたいと思っていますが、幾多の地震災害によって人生が不如意(思い通りにいかない)であることに気づかされます。そのような時に何気ない日常の日暮らしが、いかに有り難い事であったか、という事を考えざるをえないのではないでしょうか。
 ところが私は、いつもの日常を取り戻すとそうした有り難さを忘れてしまい、時が過ぎれば過ぎる程、有り難いという感覚はどこかへいってしまうのです。電気があって当たり前、水があって当たり前、日常の日暮らしが当たり前。当たり前の日暮らしに感謝はありません。ややもすると、「ああならない・こうならない・あれ欲しいこれ欲しい。あの人がこう言った…」。不平不満と愚痴の日暮らしに埋没して人生を虚しく過ごしているのが私の姿でありました。

本願力に遇いぬれば(阿弥陀さまの本願のはたらきに出遇った人は)
空しく過ぐる人ぞなき(人生を虚しく過ごす人はなく)
功徳の宝海みちみちて(素晴らしい功徳は宝の海のように私の心に満ちわたり) 
煩悩の濁水へだてなし(濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない)

 当たり前という日常に埋没し人生を虚しく過ごす私達に、「当たり前ではないぞ。いのちの真に目覚めよ」と呼びかけて下さる仏さまを阿弥陀如来と言います。迷える私を放っておく阿弥陀さまではないのです。「私がついているから、真実の眼を開いて、“有り難い”と思える人生を精一杯歩んでごらん」と、常に呼びかけはたらき続けて下さる仏さまです。
 さぁ、今年も「南無阿弥陀仏(ナンマンダブツ)」とお念仏と共にある一年を過ごしてまいりましょう。

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