今月の法話 2024年12月

お寺の本堂 柱に刻まれた お念仏の声

 「お寺は街の風景の一つにすぎませんでした」。「悩みを抱えた時にお寺に行って相談しようとは思いませんでしたか」という問いに、こう答えた若者がいました。オウム真理教が世間を震撼させる事件を起こした時に、若者をスタジオに集めてテレビ番組が作られた時の事でした。あれから三十年が過ぎようとしていますが、人々の無宗教化は益々増えている感じがします。はたしてそれでこの人生を本当の意味で生き切ることが出来るのでしょうか。
 そもそも宗教とは何でしょうか。宗と言う字には中心となるもの、という意味があるそうです。ですから人生の中心となるべき教えが宗教という事です。私達は中心となるべきものが無ければ、事あるたびにあっちふらふら、こっちふらふらと言う人生を送りかねないのではないでしょうか。
 もうお亡くなりになりましたが、いつもお寺にお参りに来て聴聞をされていたおばあちゃんがおられました。若い頃、夫を亡くし女手一つで三人のお子さんを育て上げた方です。今のような母子世帯に対して何の福祉も無い時代でありましたから、経済的にご苦労されたようです。その後、当時宗派で始まったばかりの連研を受講され仏教に出遇いました。それから聴聞一筋の人生が始まり、亡くなるまでそれは続きました。いつもニコニコしながら、うんうんと頷きながら聴聞された方でした。
 浄土真宗の信心は慚愧(ごめんなさい)と歓喜(有り難う)と言われていますが、その二つを見事に体現しながら人生を生き抜かれた方でした。自らの生き方を省みて、「お恥ずかしい限りです」と頭を垂れ、多くの皆さんやいのちのお陰でここまで生きることが出来ましたと、感謝する日々です。その信心は御恩報謝のお念仏となって、常に念仏を申す人生でもありました。
 妙好人(お念仏の教えをよろこんだ人)の浅原才市さんは「腹が立ったら 念仏申せ 念仏は火の手の水となる」という歌を作りました。日暮らしの中で腹が立つときもあります。そんな時にこそ、お念仏を称えたら心が少しは穏やかになるものでしょうね。お念仏は絵に描いた餅ではなく、日暮らしの中でこそ、その意味があります。腹が立ったらお念仏。嬉しいにつけてお念仏。お念仏を「人生の宗」として生きてまいりたいものです。

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