今月の法話 2022年7月

父の願いに 背を押され 母のぬくもりに 抱かれる

 私の父は明治42年、母は大正2年の生まれでした。21歳で結婚した母はその後の20年間で子供を11人出産します。しかし、戦中戦後の厳しい時代にあって、敗戦の昭和20年を境とした7年間に5人の子供に先立たれました。
 軍人であった父は、家族とともに中国へ出兵しノモンハン事件や日中戦争に参戦し、九死に一生を得て帰国します。部隊で戦死者が出ると父がお弔いをしていたそうで、部隊では「佐々木を死なせるな」、という不文律があったそうです。父が死ぬと戦死者を弔う者がいなくなる、という理由からであったと父から聞きました。旧満州で亡くなった兄もいれば、生まれた姉もいます。まさに激動の昭和史を生きた両親でありました。
 母は心臓に持病があり、私たちが小さい時はよく床に臥せていました。姉や兄たちが結婚や就職・進学などで次々と家を離れ、私が高校二年生になる頃は両親との三人暮らしでした。
 毎朝登校時に弁当を持参するのですが、母は持病もあり、時々朝起きれない時がありました。「隣の店でパンを買うから弁当を届けなくていい」、と母に話すのですが、昼休みに下足箱を開くと必ず温かい弁当が入っていました。自宅から高校までに大きな橋が架かっていましたが、暑い夏の日も冬の吹雪の日もそれは続きました。
 子供のころは寝室が一緒でした。父はいつも「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏を称えながら布団に入っていました。「お陰様で今日一日無事に過ごせました」、という報恩感謝のお念仏であったと思います。また食卓で日常の出来事を仏教の教えに問うていく、ご法義の話をしていました。
 母はお仏飯を持ち、お参りに本堂へ向かう時、「今日は長男の命日だ。この子は今際(いまわ)の際(きわ)にこんなことを言い残して亡くなっていった」、と先立っていった5人の子供達のそれぞれの命日に、そう語りながら歩いていました。
 「あさましいわが身だなぁ」と自分を振り返り、「有り難いなぁ」と感謝する生活を、両親は日暮らしの中で念仏を申し、念仏と共にある人生を送りました。そこには「お前たちもお念仏に出遇ってくれよ、お念仏を慶ぶ人生を送ってくれよ」、という願いがありました。
 「父の願いに背を押され、母のぬくもりに抱かれた」、有り難い両親とのご縁であったと思います。

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