光があたれば 影になる 弥陀の光明で 私の闇が しっかり見える
京都に浄土真宗本願寺派の僧侶を養成する中央仏教学院という学校があります。その学校の生徒は僧侶になるために日本全国、さらに外国からも勉強にやってきます。小学校や中学校の場合、一緒に過ごすクラスの仲間は年齢や住んでいる地域が同じですが中央仏教学院はそうではありません。中央仏教学院の特徴は、学院生の年齢・出身地・経歴がバラバラです。中学校を卒業して間もなく入学する方もいますし、高校や大学を卒業して入学する方もいます。また会社を定年退職して仏教や浄土真宗の勉強を基礎から学びたいと入学する方もいます。私が学院に通っている時、隣の席で一緒に学ばせていただいた同級生は当時78歳の広島県出身の男性でした。学院生の出身地は、北は北海道から南は沖縄県、そしてアメリカ、カナダ、ブラジル、台湾、ネパールなど本願寺派の寺院のある海外からも親鸞聖人の教えを学びに来られます。
私が中央仏教学院で学んでいる時に最初の授業で先生がこんなお話をされました。「中央仏教学院は賢くなって卒業するのではありません、愚かになって卒業です」と。それを聞いた私は変な学校に来てしまったなと正直思いました。一般的に学校を卒業する時は、入学した時よりも卒業する時の方が賢くなっているからです。「愚かになって卒業」という学校は今まで聞いたことがありません。しかし一年間そこで学ぶことによって、入学当初に先生のおっしゃったことの意味が理解できるようになりました。それは学院で親鸞聖人の教えを学ばせていただくことによって、もちろんその教えの知識は身に付き賢くなります。しかし親鸞聖人の教えを学び、阿弥陀仏の本願の救いを聴聞するにしたがって、自分自身の本当の姿が知らされてくるのです。阿弥陀陀仏の光明に照らされて見えてきた私の本当の姿とは賢くて立派な自身の姿ではなく、愚かで偽りだらけの自身の姿であったということでした。浄土真宗のみ教えを聴聞することによって自分自身の本当の姿(闇)が見えてきます。自分の本当の姿(闇)に気づくということは、もうすでに阿弥陀仏のはたらき(光明)に出遇っているということです。阿弥陀如来の光明に出遇っているからこそ、煩悩に覆われた闇に迷う私の姿が明らかになるのです。
浄土真宗のみ教え
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝のお念仏み教えを依りどころに生きる者となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
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