今月の法話 2019年2月

本当の喜びは 死を受け入れた心から生じる

 浄土真宗のみ教えをいただくとき、真に生きる意味と生きる方向性が恵まれます。私がどのような人生を送ったとしても、それは等しく仏様になるための歩みとなるのです。決してむなしいものではありません。人生100年時代といわれる一方で、無縁社会とも呼ばれる殺伐とした現代ですが、このいのちを終えると何も残らないというのであるならば、肉体的に衰えていく私の人生の終盤は、まさに意味のない、つらいものとなってしまうのではないでしょうか。それに対してお浄土に向かって阿弥陀様のお育てをいただきながら、いのち終えるその時まで阿弥陀様と共に、またお念仏のみ教えを喜ぶ人と共に歩んでいく。先人から受け継いできたこの生き方は、決して時代遅れの古臭いものではなく、なんとも贅沢なものなのではないでしょうか。

 私たちは生きていることを当然とし、死ぬことは決してあってはならないこととして死を遠ざけて生活しています。そして長い人生の最後に死が訪れるものだと思っています。しかし生と死は「一枚の紙」のようなものです。生が「紙の表」だとすると、「紙の裏」には必ず死があります。「無常の風」によって紙が簡単に裏返ることがあります。そんな儚(はかな)い限りある命を今私たちは生きています。儚い限りある命だからこそ、そのことに目覚めてこそ、苦悩の多い人生の中に喜びと輝きが生じてくるのです。誰一人として自分の思い通りに生まれ、自分の思い通りに死んでいく人はいません。

 「一つもわが身につき添うものはない」と言われた蓮如上人は、「だからこそ、阿弥陀様をたよりにしなさい」と勧めてくださっています。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない)と詠われています。苦しみと迷いの中にいる全ての人を救いたいという阿弥陀様の本願の中に私の命があり、全ての命が阿弥陀様の願いによって生かされているのです。いのちを終えると、阿弥陀様のお浄土に往き、仏として生まれさせていただく人生を今歩んでいるのです。

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