今月の法話 2015年4月

つながれてきたいのち 大切に生きていこう

 東日本震災より絆と言うことが叫ばれています。助け合い支え合っていこうということが合い言葉のようになっています。しかし現実はどうなのでしょうか。さんざんに今の世の中は絆を分断していく動きに見えてならないのです。それは震災のかなり以前から崩壊していったと思います。思えばテレビが家庭に入ってきた頃より家庭の中での話し合いや交流が希薄になり、それでもテレビ一台のうちはまだしも、家族がそれぞれ自分専用のテレビを持ち家族間のかかわり合いもなくしてしまいました。若い方々はもう小学校のうちから携帯電話を持ち、私的な電話を誰にも気兼ねなく話せるようになりました。これを便利というのか、自由というのか、それとも気兼ねがないと言うことは逆に他への思いやりがなくなっていくようになるのか、何かおかしな感覚になってしまいます。他の人とふれ合わなくても、面倒なことがなくても生きていける世を私たちは創ってきたのです。このことは、ますます進行し、もう電子機器なしでは生活が成り立ちません。このような社会では生きた人間同士の関係が希薄になっていくことに輪をかけます。
 テレビ画面の人々はいかにも笑顔で親しげに語りかけてきます。しかしそれはあくまで画面の中であって生の人間ではありません。寝転がって見ていたり、食べたり飲んだりしながら見ます。生の人間ならそんな失礼なことは出来ません。テレビの創世記の頃、私の祖母が「テレビの前で着替えをするのを恥ずかしい」と言ったことがなつかしく思います。それはテレビの中の人を生の人と見ていたからなのでしょう。子供の私は笑っていましたが、そんな思いが今は大切に思えてなりません。今の私たちはテレビの中の人間をモノ扱いにしているのです。モノの売り買いが自動販売機になり機械相手にモノと金銭を交換し、「コンビニエンス」は「便利な」という言葉ですが何でも私たちは便利さと交換に人と人との交流を失ってしまっています。貧しい不便な時代には「おかげさま」「おたがいさま」「ありがとう」が、生きていた時代であったと思います。いやその心がなければ生きていけない時代であったのかもしれません。戦時中「欲しがりません、勝つまでは」と言ったのが今では「欲しがりましょう、買うまでは」であります。モノの豊かさと人間同士の絆は反比例するのかもしれません。青少年の重大な事件の原因はすべてが人と人との関係性をなくしてしまったことに原因があるように言われます。人間は他とのかかわり合いの中でしか生きていけないのです。絆をズタズタに引き裂くモノはなんなのでしょうか。便利さや電子機器も一役はかっているかもしれませんが、根っこは「私」の勝手な思いが根本のように思います。仏教は「縁起」です。つながりです。かかわりです。「絆」なのです。便利な世の中だからこそ、そのことを忘れないで欲しいと思うのです。「一人で生きている」、とか「一匹狼さ」とは何と傲慢なことなのでしょうか。迷惑かけなきゃ生きられないのが「私」なのです。

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