今月の法話 2014年9月

青があってこそ赤が引き立つ いろんな人がいてこそ世の中は輝く

 政治の混迷、雇用の不安定、鶴田浩二さんの「今の世の中右も左も真っ暗闇じゃございませんか」は、あの歌が流行した時代以上に現実的です。今の時代は何でも無駄を省き、手間をかけずに生きていけるような時代を築いてきました。文明の発達というのはそのようなものなのでしょう。文明の主人はそれを創り出した人間でなければなりません。いつもそのためには文明を人間が監視できる必要があります。しかし今の社会では行きつくところまで行ってしまい止まることなく、人間の思いとは別に効率と経済性に振り回され、逆に文明に人間が支配され文明が人間の上に君臨しているようですね。行きつくところまでいかないとそのような失敗に気づかない、しかし失敗に気づけばまだ良い方でありまして、失敗にも気づかない状態が生まれてきています。失敗しても埋め合わせるための便利なものがすぐに出来ます。百年前に自動車が発明され「何て便利なものか」と、誰しもが自動車を欲しがりました。しかし歩くことがなくなり、運動不足により足腰が弱くなってくるようなものです。今度はその埋め合わせにスポーツジムが盛況になります。何事も人間の思いを超えて文明が暴走をしているようです。
 東日本大震災により「絆」「つながり」が声だかに言われます。しかし現実の世の中はそれとは逆に進んでいるように思えてなりません。自分の都合の良い人とは「つながり」を持ちたがりますが自分に反する人や異なる考えを持つ人とは「つながり」を絶ってしまいます。情報網の発達はその事に大いに貢献してくれます。人と会わなくても情報は得られます。結婚しなくても、食事を作らなくてもスーパーマーケットに行けば何でも出来上がって売られています。以前包丁のない家庭が話題になりましたが、現実として「金さえあれば」「きずな」や「つながり」のような「わずらわしさ」は必要ないのです。本来「つながり」は相手の気持ちを推し量りその事によって自分の世界を広げ私自身の心豊かに成長していくことでした。しかし今の日本は自分のみが生き延びる事で精一杯で「他人のこと」などかまってられなくなっているようですね。それは悲しいながら人を信頼出来なくなっているのでしょう。すべてが「カネ・カネ・カネ」で動いているようです。すべてが効率主義になっています。余裕のない息が詰まる思いがします。私たちは人権とか言論とか言いながら強い者には弱くなり弱い者には強気に出るようになり、今問題の「いじめ」の構造が子供ではなく大人の世界にも広がっているように思えます。仏教は「我あるゆえに彼あり 彼あるゆえに我あり」、互いに、もたれ合い寄り添いながらしか生きられない自分のありようを基本とします。
「つながり」はこのことを意味します。「つながり」を持ちましょうというよりは「つながり」がなければ一時も今ここに私は存在できず生きてもいけないのです。仏教は一人で生きていけるなどというのは傲慢そのものと説きます。自分勝手な生き方と「つながり」を感じて生きていくのとが、本当に喜びを感じられるのはどちらなのでしょう。多くの様々な人がいてこその世の中であり、それが人間(じんかん)というものなのです。モノが溢れ本当に私がほしいモノはなんだったのかもわからなくなっています。自分が真実に望んだ生活、人生はどのようなものだったのか改めて考えたいものです。

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