今月の法話 2014年2月

人は色々な色を塗っている自分にも他人にも

 皆様は初対面の人と会ったときに交わす言葉はどのようなことでしょうか。家庭人の役割、町内の役割、会社の役割、いろいろな顔を私たちは持っているということです。その中で本当の顔が何だったのかを見失っているように思えます。イソップ物語に次のような寓話があります。「家の中にいた子山羊が、外を通りかかったオオカミに向かって悪口を言ってさんざんからかいました。それを聞いたオオカミは、ふんとせせら笑い『オレを罵っているのはおまえじゃない、おまえのいる場所だ』と言いました」。弱いモノが強いモノに挑む知恵の一つの教訓かもしれませんが、もう一つこのオオカミの言葉には自分が安全なところに身をおいているからこそ強がる子山羊の卑劣さを笑っているように思えるのです。この「おまえの場所」「お名前は?」「ご職業は?」でしょうか。
 私たちは人間として生きる以上、社会と関わり合ってしか生きていけません。その社会は多くの集団で成り立っています。これを「地位」とか「場所」とか「肩書き」「名刺」「バッジ」「一流大学名」と置き換えてみたらどうでしょう。オオカミの言葉はイソップの時代ならぬ現代でも通用するのではないでしょうか。これを生き甲斐にしている人も見かけますね。肩書きだけで必要以上に偉くなっている人間はその肩書きを失ったとたんに弱さをさらけ出してしまいます。自分の社会的な地位を誇示する人は自分の地位をカサに着て威張り散らすのは自分の弱さをさらしていることに他なりません。子山羊は弱い存在です。弱い自分が強い「家」に守られているからこそオオカミの悪口を言えたのです。しかしいつのまにかその弱い存在を忘れ、地位や肩書きを自分のモノと思い込んでいる姿を目にすることがありますね。
 人間には人としてはたさなければならない「個人の役割」と、組織の中では「役割としての人間」になることを要求されます。この二つの役をごちゃ混ぜに考えていませんでしょうか。自分ばかりか他人までも「会社はどちらでしょうか」「課長、部長、ヒラ」、「大学は」「一流、二流、有名、無名」とその人となりよりも肩書きで判断しがちです。個人の尊重とは言いますが依然として私たちは自分や他の人を判断するのに個人として向き合う前に自分の地位や他人の肩書きを念頭に置きながら接します。自由競争、リストラの時代の今、官庁や会社の役割、肩書きに頼りきっいては組織が崩壊した途端、守られている家がなくなり苦しみを味わってしまいます。本当の私は何なのかを平生より見つめていなければなりません。仏教に肩書きは必要ありません。浄土真宗のみ教えは特にそうだと思います。名僧、高僧は念仏の教えには存在しません。ただ同じ罪悪を犯しうる「凡夫」がいるだけなのです。そのような迷い悩み、その中でもがき苦しみ続ける人間こそが阿弥陀如来の救いの対象なのです。地位や肩書き名誉は置いていかねばならないのです。『御同朋の社会をめざす』という私たちの教団のスローガンは同じ立場に立つ弱い人間同士だからこそ同朋(なかま)なのです。色など塗らずに真実に生きたいものですね。

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