今月の法話 2013年5月

あらゆるいのちのはたらきは 私ひとりを生かすため

 春になりますと、いつも私は「花祭り」が懐かしく感じられます。
 お釈迦様の誕生仏に、甘茶をかけて、お祝いします。言い伝えによりますと、お釈迦様の誕生の光景として、生まれてすぐに七歩、歩まれ「天上天下唯我独尊 三界皆苦 吾当安之」と、宣言されました。「苦しんでいるあらゆる者に安らぎを与えたい、そのために私は誕生したのだ」というお釈迦様がこの世に生まれた尊い意義であります。このことは、お釈迦様だけに限らず、ありとあらゆるものは、この世に生まれ、存在していることに、尊い意味があるということではないでしょうか。どんなものも、どんな人間もそれぞれが何らかの役割を果たしてこの世に存在しているということです。無駄なもの、必要のない人間などは決していないのが仏教の見方です。「かけがえ」のない一人一人なのです。死んでよい命とか、殺してよい命などはどこにもないのです。
 かけがえ・・・ 「かけがえ」は、「かけかえ」とも言い、「いざというとき代わりになるもの、予備となるもの」を意味します。ですから「かけがえのない」ということは、代わるべきものがないという大切な事を意味します。「人権」とはまさにこのことでありましょう。ところが、今の日本はこのことがすっかりと置き去りにされているように思えるのです。法律には「基本的人権」などと書かれていますが現実にはどうでしょうか。人権などとは、ほど遠い関係があちらこちらでみられます。フリーター、ニート、使い捨て、一言文句でも言ったら「ご苦労さん、あなたの代わりはいくらでも・・・・」です。「かけがえのなさ」の反対語は「交換可能」でありましょう。この「交換可能」の考えこそ、個人の人間としての尊厳性とか、誇りとかを傷つけるものはないでしょう。「あなたの代わり」がいたとしたら「あなた」は何なのですか。悲しすぎますよね。悔しすぎますよね。「かけがえのない私」が、この世に生まれてきた最後のよりどころだったはずです。
 あの神戸の児童殺傷事件の「酒鬼薔薇少年」が残した「透明な存在」が、物議を呼びましたが、あの透明な存在の意味は最初は誰もが「誰からも認められない無視された存在」のように受け取られましたが、実はあの意味は「自分を出さずに自分で透明になっていれば」という事だったのです。自分を出したら他人からは決して受け入れられない「浮いた存在」になってしまうということです。そこにはただ他と合わせ、自分を押し殺し自分が何なのかも解らなくなってしまいます。「和を以て尊し」は大切なことでしょう。しかしこのことを私たちは、他人と合わせれば・・と言うことと、誤解をしているように思えるのです。このことにこだわり過ぎますと、自分自身の人生は歩めません。他人の目で人生を突き進むだけです。妻が夫に言います。「面倒みてくれる人だったら私でなくたって・・誰でもいいんでしょ」と。かけがえのなさは、「あなたでなければ」ということなのです。あなたも、私も「かけがえのない」存在なのです。他人が何と言おうが、交換は不可能なのです。しかし現実の日常はすっぽりと、このことが忘れられ、ただ経済の効率性ばかりが追求されているようです。 おぞましい事件の原因は、ほとんどがこの「かけがえのなさ」の喪失が生み出していっているように思えてなりません。「交換可能にされてたまるか!」と人間としての誇りを持ち続けたいものですね。

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