今月の法話 2012年10月

迷いとは 教えにであうご縁なり 迷信を捨て 正信を見つめるべし

 「迷い人」と聞くと、誰が迷っているのかと、周りを見回す人があります。そして、「迷い人」というのは、何処から来たのか分からず、何処へ行くのかも分からない人のことであって、自分は何処から来たのか分かっているし、何処へ行くかも分かっているから迷い人ではないと思っている人も多いことです。しかし、私たちの生き方をよくよく見つめてみたらどうでしょう?本当に自分は「迷い人」ではないと言い切れる人がはたしているでしょうか?
 『仏説無量寿経』に、

「世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことに変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。」(浄土三部経現代語版)

と、説かれています。私たちは、持たざる者は持つものを羨み、妬み、それを欲して苦しみ、持つ者は失うことを恐れ、平等に分け与えようともせず、さらに欲して苦しむという生き方をしているのです。そして、その苦しみの明け暮れの中に、最後はたった独り何も持たずに、何処へとも知らず、死んでいくのが、偽らざる私たちの姿でしょう。この姿を「迷い」といい、このような生き方しかできない者を「迷い人」いいます。しかし、私たちは、その「迷い人」であることにも気付かず、欲望の虜になって、その欲望を叶えようと、より深い迷いの中に陥っています。その「迷い」の姿に気付かせて、本当の歩む道を明らかにしてくれる教えが、真実の教えです。

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