今月の法話 2011年4月

スピードの出し過ぎは 事故のもと 我欲の出し過ぎは 災いの種

 車でも自転車でも、そして、走っていても自分で制御できないようなスピードを出したなら、何かあったときに直ぐに止まったり回避したりできなくなり、確かに事故のもとになります。そして、我欲に縛られる私たちではありますが、その我欲に気付かず、これを出し過ぎると災いのもとになりますね。
 バブル経済のまっただ中での、あるご家庭の出来事です。そのご家庭は、お爺様・お婆様、そして、この年老いたご両親の面倒を見ながらの息子さん御夫婦が同居してお住まいでした。私は月参り・ご法事等と、このお宅によくお伺いをして、親しくお話をさせて頂いていましたが、ある日、お爺様が亡くなられました。悲しみの中、お通夜・お葬儀を終えて、中陰のお参りのとき、今まで、ご法事のときにもお見受けしたことのないご婦人がいらっしゃいました。初めのうちは、親しい知人の方かと思っていましたが、満中陰のご法要までずっと熱心にお参りをされていましたので、どなたかとお尋ねしてみましたら、お爺様のお嬢さんとのお答えでした。それまで何度もお家の方とお話しをした中で、お嬢さんのお話を一度も聞いたことがなかったので、驚いた次第でしたが、お父様が亡くなられたことを悲しみ、お参りされていたのだなと思っていました。
 ところが、その後、家を移りましたという連絡が入りました。まだお爺様が亡くなられて間もないのにどうしたことかと思っていましたら、そのお家の土地の価格が億を超えており、相続のことでもめていたのでした。結局、遺産を分けるにしてもサラリーマンの息子さんにしては現金で払うこともできず、その土地を売らざるを得なくなってしまったのでした。お婆様にしても、お爺様と暮らした思い出の家を出ざるを得なくなり、なぜこの歳になって住み慣れた家を出なくてはならなかったのかと落胆され、嘆かれていました。その後、月参りにお伺いしても、そのお嬢さんとは二度とお会いすることはありませんでした。
 我欲にまみれて生きるしかない私たちですが、その我欲を如来の働きによって気付かされることはできます。我欲を知らずに生きるのと、我欲に気付かされて生きるのとでは、その方の人生の上に大きな違いが出てくることでしょう。

印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード

法話バックナンバー