今月の法話 2010年8月

無量のいのちが 無数のいのちを たしかに支えている

 私たちは、愛する者が怪我や病気で苦しんでいたらどうするでしょう。その愛する者の苦しみを代わってあげたい、何とかして苦しみを取り除いてあげたいと思うものです。ましてや、愛する者の命が懸かっている場合には、その思いはなおさらです。これは、愛する者の苦しみを、そのまま自分の苦しみとして同感することによって、その苦しみをどうにかして助けてあげたいという思いが出てくるからです。
 しかしながら、私たちにはそのような場合に際して、どれほど愛する者の命であっても如何ともできないのが、また現実です。生まれた命は、必ず死んで行かねばならない命です。これは、生きとし生きる全てのものの命の在り様です。そして、その命の行き先も私たちには分からず、結局は苦しみの中に死んでいくしかない命となります。その死んで行かなければならない私たちの命を、我が命として引き受けて支えて下さっている仏様が、「無量のいのち」をお持ちの阿弥陀仏なのです。
 「無量のいのち」は阿弥陀仏のお働きの姿です。阿弥陀仏の「阿弥陀」は、サンスクリット語の「アミターユス」という言葉から由来した、「無量の寿命」という意味があります。この意味から、阿弥陀仏を「無量寿仏」ともお呼びします。全ての生きとし生きるものの命を、我が命として引き受け支えて、苦しみの中に死んでいく命では終わらせません。阿弥陀仏と同じ「無量のいのち」を与えずにはおかないと常に働いて下さっています。

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