今月の法話 2009年5月

真の気づきこそが 真の人生の第一歩

 男性は結婚したら妻や子どもが生活に困らないように、しっかりとした経済力を身につけて扶養していかなければならないと、子どもの頃から私は思っていました。余程のことがない限り、夫たるものは外で働いて収入を得て家族を支え、妻は家庭にいて子育てや家事に従事するものだと思ってきました。共働きが珍しい時代でした。時代と社会のありように責任を押しつけるのは間違っているのですが、家庭生活を続けて行かれるのは、家庭を支える男性がいればこそなのだという男性中心の観念を払拭することができずに生きてきました。
 ところが近年病を得てこれまでの浅はかな思いはとんでもない間違いであったと気づかされました。家庭にあってもほとんど身の周りのことさえ、家族に支えてもらわなければできません。そんな生活の繰り返しの中で徐々にわかってきたのは、病を得て初めて支えてもらったのではないということでした。
 「俺が妻や子どもを守ってやっている」と傲慢にも思いを改めることができなかったけれども、健康なときにも妻や子どもに支えられて生きてくることができたのだと、ようやく思えるようになってきました。
 これも病を得たお陰と思っています。また同じようなことばですが、「病」と「病気」の間には大きな開きがあるのではないかと、あるときハッと気づかされました。お釈迦さまは私たちの避けがたい苦悩を、「生老病死」といわれました。これに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」を加えて八苦とされました。いまでも何かで困ったり苦しんだことを「四苦八苦した」などといわれるのは、お釈迦さまのことばから出たものです。避けがたいものの代表のひとつが病ですが、病気といわれるものとの間には違いがあると思ったのです。病とはまさに肉体のつらい症状ですが、それをつらさや嘆きや悲しみにしてしまったのが病気というものではないかとふと思ったのです。そうしたらがんといま向き合わねばならない身を嘆いていたのに、何故かがんという病が私に教えてくれた沢山のことが思われて、晴れやかな思いにさせてもらうことができました。
 あるとき思うようになってくれない子どものことを妻に愚痴ったことがありました。願いをかけて育ててきたのにその甲斐もなかったと、思わず言ってしまったことがありました。そのとき妻は言いました。
 「子どもたちはそれぞれの力で育ってきたように思う。子どもを育ててると思ってきたけれど、いま思えば子どもたちに十分に育てられ、楽しませてもらったと思うよ」
 私はガンと頭を打たれたように思いました。育てていたのではない、私が育てられていたのだと。いや、皆それぞれの役割を持って育て合ってきたのだと気づかされたのでした。
 お釈迦さまの悟りの核にあるものは、縁起であるといわれています。縁起とは、「よって起こる」ということです。すべての作られたものは、縁と因があって初めて成り立っているということです。種(因)だけがあってもそれは種(因)だけで終わってしまいます。そこにさまざまな条件(縁)が加わって、花を咲かせ実を結ばせる(果)ことになるというのが、仏教の根本的な命題です。それを真理ともいってきました。
 私中心の観念(我執)から脱け出ることができないでいるのが私たちの偽らざる相です。でも、私たちの外にあるあらゆる助けがなければ、どんなときにも生きて行けないことに気づかされたら、先ず私の生きざまが変わるでしょう。それこそが、真実に向かっていく私の人生の第一歩ということができます。私を支えてくださる力に気づいた人生を、共に歩みたいものだと思わずにおれません。

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