今月の法話 2008年7月

南無阿弥陀仏 それは 有り難うの お念仏

 「ありがとう」のことばを、ふだん何気なく使っていますが、思えば不思議なことばです。「ありがとう」ということばが出る前に、私の外側からそのことばを言わせる何かのはたらきかけがあったのです。私が言っているのに違いはないのですが、私をして言わせているものがあってはじめて私の口から、「ありがとう」が飛び出したのです。理屈っぽい話になってしまいましたが、たったひとことのことばの背景にも、このような深いものがあったと改めて感じさせられています。
 よく言われることですが、近い存在のひとほど「ありがとう」が言えません。よそのひと、それも特に予期せぬひとから親切にしていただいたりすると、うれしさも手伝って大げさ過ぎるほどにでも「ありがとう」と言い、感謝の表現ができるのですが、身内になると照れ臭さもあって、なかなか「ありがとう」が言えません。親子、夫婦、兄弟間ほど、日常の生活のなかでは実際に支え合い、助け合っているはずですが人間関係の中で最もお互いに感謝の表現ができていない間柄になっているといっていいのではないでしょうか。
 そこには、「みなまで言わなくてもわかっているはずだ」「心のなかで言っているからいいだろう」などという日本人独特の思い込みもあるように思います。近年、こういう甘えが許されない土壌になってきていると感ずるのは私だけでしょうか。
 熟年離婚が増えていると報道されています。年金制度の改定で長年結婚生活を共にした夫婦が離婚したときに、妻にも元・夫が受け取る年金のうちから妻の分が保障されるようになりました。それが熟年離婚の数を押し上げる要因になっているという説がありますが、どんなものでしょうか。夫婦という濃密な人間関係のなかで、ひとがそれほど「打算的」になれるものかと私は疑問に思います。それよりむしろ、長い結婚生活のなかで「ありがとう」と言えなかった生活のありようの方に、離婚の要因を求めるべきではないかと思うのです。離婚という爪を研がれていることにも気づくことなく、「わかっているはず」と思い込んで腰をかけていたら・・・と聞いたことが何度かありました。
 また家族間の殺人事件も目立って起きています。ここにも思いのすれ違いが要因として考えられますが、他人同士なら埋められた溝が、家族であるが故に埋められなかったというところもあるように思います。簡単に結論づけて言ってしまうのは乱暴すぎるかも知れませんが、どんな深い溝をも埋め、あるいは越えさせてしまう力こそ、「ありがとう」の心とことばだと、私には思えてなりません。
 その究極の「ありがとう」のこころこそ、南無阿弥陀仏です。阿弥陀如来とは、私と関係なく存在する絶対者ではありません。この「わたくし」の苦悩に寄り添って誕生された仏が阿弥陀如来です。苦悩のなかに呻吟する「わたくし」がいなかったら、阿弥陀如来は存在しなかったのです。それが神様と阿弥陀如来の違いでもあります。

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして 
回向を首としたまひて 
大悲心をば成就せり 
(『正像末和讃』)

 阿弥陀如来が仏となられたのは、苦悩の衆生を救うためであったと聖人は讃えていらっしゃいます。しかも、「ありがとう」と私に先立って名のってくださったのです。このありがとうの心をいただいた私たちは、おかげさま、ありがとう、南無阿弥陀仏と、生きぬく道が恵まれるのであります。

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