今月の法話 2008年2月

「異」を排除しない国 それがお浄土

 一つの動物種として見たときに、私たち人間は弱い部類に属するのではないでしょうか。その人間が淘汰されずに生き延びてきたのは不思議にも思えますが、その力になったものは集団(群)で生きてきたことと、発達してきた知恵にあるのでしょう。
 人間ひとりでは一頭の羆にも象にもかないません。力の弱い人間は、集団になることによって強い動物に立ち向かい、また自然の脅威から身をまもってきました。共同体としての集団の中で私たちは、「われわれ意識」を高揚させてもきました。オリンピックになると、これまで会ったこともないのに日本選手であるというだけで、多くの日本人は日本選手を応援します。公平でなければならない審判が自国の選手に有利なように判定する問題は、国際競技大会で後を絶つことなく起きています。「わが国の選手」というだけで応援したくなる心情と、他国の選手に厳しい判定の眼を向けていく心情は、紙の裏表のように切り離しがたくある私たちのこころ模様なのかも知れません。
 また、他の集団よりも強くなるためにさまざまな統制がしかれ、秩序づけられてくる中で私たちは生きてきました。共同体といえば聞こえはいいですが、それを維持するために同じものに違いを見つけて序列化したり、果ては排除したりしています。
 この頃は「テロとの戦い」といえば、その行為のすべてが容認されていくような風潮がはびこっています。人権運動の課題として取り組まれてきて、ようやく廃止に向かっていた「外国人指紋押捺制度」が、「テロリストの入国阻止」を理由に、復活どころかさらに強化されました。外国人による凶悪犯罪が激増していると煽る怪しげな輩の言説に振り回されて、さしたる反対運動も起きません。在日外国人の数は、国際化の流れの中で近年急増してはいますが、その数に比例して外国人による凶悪犯罪がふえている訳ではありません。むしろ、外国人による凶悪犯罪が激増しているという石原慎太郎都知事の言説の方が、在日外国人を排除して、さらに社会不安を煽るものであると思えてなりません。
 端的にいえば、外国人であろうと日本人であろうと、悪い者はいるし、いいひともいます。それを、国とか民族を理由に人格に関わることにまで、一つのレッテルはりをして決めつけていくことの罪業性を、私たちはよくよく見つめていきたいものです。
 阿弥陀如来の願いから最も遠いもの~それが排除です。差別とは、正当な根拠のない排除です。皮膚の色や民族、宗教の違い、あるいは、「家柄」や学歴・職業等の違いは、それぞれの人間の価値とは全く関係がありません。違いに、とんでもない価値観を持ちこんで評価し、優劣をつけ、一方を排除していく思考が、湾岸戦争を起こし、アフガン攻撃を許し、イラク戦争を収拾つけられない泥沼化に導いてきました。日本も国家として、その片棒をかついできました。ロシアによるチェチェン攻撃をはじめとする旧東欧諸国との緊張も、やはり大国意識によって支配を維持しようとする思考が根底にあります。戦争遂行を可能にする思想の核となるものが、差別思想です。
 人間のさまざまな行為の中で、阿弥陀如来が最も悲しまれるものが差別であり、戦争であると私は受けとめています。それ故にこそ、三悪道に趣くことなく金色に輝く浄土を建立せずにはおられなかったのです。お念仏に生きるとは、浄土に生かされる道です。浄土に生かされるとは、いま私が、どう動く道なのでありましょうか。

印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード

法話バックナンバー