今月の法話 2007年10月

ありがとうと いえる よろこび

 「ありがとう」という挨拶のことばは、「有り難し」から転用されたものです。仏教では、「難し」を単にむずかしいという意味ではなく、不可能という意味で使ってきました。ですから、有り難しとは「有ることが不可能」ということになります。そこから考えると、「ありがとう」とは感謝の表現であると同時に、あり得ないことがあったという驚きの意味も含んでいるといえます。
 いまここに生きていることを、当たり前と思いますか?それとも不思議と思いますか?
 「そんなことは考えたこともない」
 そうおっしゃる方がいるかも知れませんが、それぞれが己に問いかけてみませんか。
 よくよく考えてみたら、いまここに「わたし」が生きて存在しているというのは、不思議に思えてなりません。二十一世紀の日本にこの家族と共にある。まわりで「わたし」を支えてくれる人びと。立っている大地。どれ一つとして、私が選択したものはありません。唯一、私の意志で選んだと言えるとしたら伴侶でしょうか。わが親やわが子でさえ、「わたし」が選び取ったものではありません。選択の余地なく、気がついたら私の親としてあったのです。しかも、私の思惟を越えてあるそれらの人びとやものごとに支えられて、私の今日が成り立っています。
 そして、私たちが生きるためには何よりもこの身体がなければなりません。ところが、自分の身体と思い込んでいるこの身体が、「わたし」の思惟を越えて存在しています。無意識のうちに呼吸し、意思を越えて心臓は動き、体内を血液がかけめぐっています。ときに異物が体内に発生します。がんがその代表でしょうか。そのがんさえもが、私の身体と共にあるのです。三千大千世界といわれる大宇宙に比べて、一メートル数十センチのこの身体は、決して引けを取らない不思議さを湛えています。
 私たちが生きるということは、出会いと別れの織りなす道を歩んでいくということでもあります。その出会いと別れを、当たり前と見過ごしていくか、不思議と受けとめていくか、それは私たちの人生を深くしていくかどうかの別れ道なのではないかと思います。
 身体的ハンディを背負って生まれてきたわが子に、生きる力をもらったと述懐するご両親がおられました。一方で愛しいはずのわが子に虐待を重ねる親がいます。
 世の中を呪いながら、愚痴や怒りのことばばかりを口にする人びとがいます。一方で不遇の中ででもくさらずに、生き生きと活動している人びとがいます。
 この差はどこから来るのでしょうか。社会の矛盾に目をつぶれというのではありません。おかしなことには、おかしいと声を上げていかねばなりませんが、いまあることの不思議さに響く心を持ちたいと思わずにおられません。
 不思議な手記に出遇いました。三十四歳でがんで亡くなられた青年僧侶の手記です。
 医師から余命半年と宣告されて、彼は「間にあった」と書いているのです。「私の聞いてきた教えは浄土真宗だ。とっくに〝間にあって〟いたのだ。もうすでに摂め取られていたのだ」「この教えに出会えたことが、私の最大の幸せ、喜びと初めて気づかされた。南無阿弥陀仏」と記されています。さまざまな葛藤があったでしょうが、幾度も「よかった」と書く最期のその人のなかに、ありがとうと生き抜いていかれた尊いいのちを拝まずにおられません。

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