今より約二千五百年前に、インドに出生したゴータマ.シツタルタさとられてからは「釈迦族の尊者」、すなわち釈尊が、真理を悟り仏となられました。
仏とは「プツタ」、すなわち「目覚めたもの」という意味で、「悟る」とは、無知なるゆえに誤った生き方をしていたものが、ものの本当のあり方を知って 「本来の自分を回復する」ことです。勝れた洞察力によって「目覚めた人」となられた釈尊は、それこそ人間としての本当の生き方であることを確信され、他のすべての人々にも仏になるようにと教えてゆかれました。その仏になる教えが仏教です。
親鸞聖人はその仏になることこそ人生の目的と定め、釈尊の教えにしたがって、あの激動の時代の中で真剣に生きぬかれた方でした。そこまでに聖人を導いた仏教とはどのょうな教えでしょうか。聖人はそれをどのように学び、実践されたでしょうか。 まず、釈尊のところにたち戻って、仏になるとはどいうことかなど、この宗教の基本的な教えの内容と特徴をみて見ることとしましょう。
私たちは、いつまでも若々しく、幸せな人生をおくりたいと思っています。そのために健康に気をつけ、お金も蓄え、子供にも勉強させて安定した将来のために努力しています。しかし、予期せぬことが起こり、思いどおりにゆかないことに泣くことがたびたびです。また、平和の願いに反して争いは絶えません。一番心やすまるはずの家庭のなかでさえ、家族の反目がおきています。そして気がつくと、私自身が戻ることのできない老・病の道を歩んでおり、最後には例外なく死の淵に沈んでゆかねばなりません。ところが、私たちはそのような厭な現実を私のこととして認めたくないあまり、できるだけ眼をそらそうとしています。そのために、真剣に考えることもなく、空しくこのかけがえのない一生を終わってしまいます。 この現実に気づいた若きゴータマは、シヤカ族の王子の地位をすてて、この問題の解決にとりくみました。老・病・死の根本苦がある限り、どんなに目先の楽しみを追い求めても、結局幸せにはなれないという結論に達したからです。
何が起こるかわからない不安定な現実に直面して、私たちはどうするでしょうか。神にお祈りして私が災難にあわないように護ってもらおうとする多くの人がいます。また、この世のことはあきらめて、次の世では楽しみに満ちた天国につれていってもらおうと神に願う人もいます。多くの宗教はそのような方法を教えます。釈尊の時代にもいろいろな宗教家がいて、それぞれに苦から脱する方法を説いておりました。しかし、釈尊はそれらのいずれもが本当の意味で問題を解決するものではないと判断されました。そして、まったく独自の方向から問題解決の方法を見出されたのでした。
私たちは次々に起こる不幸を前に、厭なことはなるべく見ないように、私には起こらないようにと願います。そして、神に祈って不幸から護ってもらおうとします。釈尊は、そのような他に頼って現実から眼をそらす逃避の方向をとられませんでした。そして、厭な現実をもはっきり自分自身で見きわめ、人のせいにしたり何かの力に頼ったりするのでなく、なにが原因かをつきとめ、それを根底から取り除くという解決の方向をとられました。一般に宗教では、「神のことば」であることを根拠にして真理であるか否かを判断し、たとえそれが事実に違ったことであったとしても、それにしたがうことが信仰だとみなされています。当時、インドにもそのような宗教的権威がありました。しかし、釈尊はそのような権威によって真理を決定したり、神の思召しにまかせるという立場をとられませんでした。私たちが眼をそらしている苦の現実に向きなおり、避けていたゆえに見出せなかった苦の正体を自らの眼ではっきり見つめられたのでした。そして、苦の本当の原因はどこにあるのか。その原因はどうしてとり除けばいいのか。一切の先入観を去っての事実の冷静な観察の繰り返しのすえ、ついにその答えを見出されたのでした。 こうした「諦観(=明らかに観る)」とか「如実知見(=事実をそのままに見る)」とか言われる現実直視の姿勢は釈尊の思索の根底に一貫して流れているもので、それこそ仏教を成り立たせている基本的な考え方です。他の多くの宗教が真理は神から啓示されるもので、人間の方から見れず近寄れないものであるとするのと全く違った仏教の特質として注目しなければなりません。
現実直視の観察の結果、釈尊は次のような今までだれも気づかなかった重要な事実を発見されました。
一、苦は外に存在して私を苦しめているものではなく、私の自己中心の心(=我執、煩悩が造り出しているということ。
二、その原因となっている自己中心の心は、私たちがものの本当のあり方に無知であり、事実を誤認して受け取っていることによって起こるのであるということ。
まず前者のことについて私たちは、苦しいことはお金がないからだとか、ものが足りないからだとか、原因は外にあると常識的に考えています。したがって、外の条件がととのえば幸福になると考えています。しかし釈尊は、むしろ事実はその逆であって、苦しみや楽しみを造りだしている原因は私の方にあるというとを見きわめられました。「心が造りだす」とはどういうことでしょうか。私たちは、眼で見たり耳で聞いたしてものを知り、判断して行動します。そのとき正しく見、聞いていると思っていますが、はたしてそうでしょうか。「気をつけていなかったので見過ごした」とか「腹が立っていたので、耳に入らなかった」とかのことがしばしば起こっています。ちゃんと見ていると思いながらも、実は自分の思いや関心で世界が変わって見えてしまうのです。釈尊はそのことを「すべては心が造りだしたものである」と言われます。ところが、このように世界を造りだす心の正体は、いつも自分と自分に属するもの(=我・我所)に都合がよいように思ってはたらいている自己中心の心です。自分に好ましいものはあくまで欲し(=貪欲)、自分に厭なものは排斥しようとする心(=瞋恚)です。自分に好ましい意見は正しく、自分を批判する考えは間違いだとする心です。このような心をもとにして世界を造りだしているのですから、それはすでに歪んでいます。にもかかわらず、私たちの見ているものは正しいと思いこんでいます。私がそのような自分勝手な世界を造っているだけではありません。人もまた同じょうに、その人の都合を基準に歪んだ世界を造りあげています。そのことに気づかず、両方が正しいと主張すれば争いは避けられません。 このょうに観察してみるとき、私たちが「苦」と思っているものの実体は実は無く、私が造りだしたものにおびえ、それによって争っていたにすぎません。このような悪循環が「迷い」にほかなりません。しかし、私たちはそのょうな悪夢の中にいることさえ気がつかずに迷いつづけています。それが「凡夫」あるいは「衆生」と言われるわたしたちの姿です。このように釈尊は、私たちの苦悩の現実、迷いの原因が私たちの内なる煩悩の心にあることを明らかにされました。
迷いの原因が私たちの内なる煩悩にあるとすれば、それをとり除くならば苦悩の迷いからの脱却が果たされることになりましょう。しかし、それはどのようにして可能でしょうか。そのような心が起こらないように常に欲望を抑えつけてゆけばよいのでしょうか。釈尊は六年間山に入って断食などの厳しい修行を経験された結果、それのみでは可能ではなく、煩悩が起こるについては更に根本的な原因があることを発見されました。それが前述の第二の発見です。すなわち私たちの自己中心の心がはたらくのは、私たちが「ものの本当のあり方を見ていない(=無明)」ところに原因があるということです。釈尊は、菩提樹の下で「十二因緑」の順観・逆観の観察をおこない、苦を引き起こしている迷いの構造を分析し、この結論に到達されたのでした。 それでは、「ものの本当のあり方」とは、どういうことをいうのでしょうか。また、それはどのようにしたら見れるのでしょうか。 私たちはいろいろな現象のなかで生活しています。それらは必ずしも眼に見えるものばかりではありませんが、いま仮に「もの」と言うことにします。それらは一見ひとつひとつ独立に存在しているようですが、よく観察してみますとすべて例外なくいろいろの要素が「より合って成立」しています。そのようなあり方が「縁起」と言われるものです。また、ものはそのように縁起としての存在ですから、それらのどこにも氷久不変の実体のようなものを認めることはできません。そのようにすべてのものに実体の無いというあり方は「無我」と言われます。また、ものは常に変化していて、変わらずに存在し続けるものは一としてありません。このことは「無常〕と言われます。見方の違いや表現の違いはありますが、いずれもものの事実としてのあり方に他なりません。 これらの事実は、説明されてみると当然のこととおもわれます。しかし私たちには、それを認めたくない我執のために本当に分かっていなかったのです。釈尊が明らかにされたことによって、初めて知り得たわけです。とはいえ、そのようなことが釈尊が出られることによって、突然に新しく発生したわけではありません。釈尊の出生するか否かにかかわらず、ずっと事実としてあり続けていることです。それはだもが認めざるをえないことです。その事実こそ「真理」であって、「法」と言われ「真如」と言われることです。
事実を知らない=「無明」こそが、札たちの心を誤っった思いにかりたて、混乱の世界=「迷い」をひきおこしていることが明らかにされました。この状況を正常に回復させるには、「無明」の払たちが「明」の私たちになること、すなわち法を見、誤りの原因を断ち切って正しい思考や生活ができるようになることが大切であることを釈尊は教えられるのです。 たとえば、迷いの根本となっている自己中心の心「=我執」は、私たちが知らず知らずのうちに「私」というものに、変わらない「自我」があるかのように認めていることから起こっていることではないでしょうか。しかし、そのょうな自我はどこにも存在しません。その事実がはっきりわかるならは、「私というもの」へのとらわれの心(=執着)は、おのずから根拠を失って消えうせてしまいましょう。そうすれば人も私も同じ弱い存在であるというつこと、そのような弱い私がすべてのもののおかげで生かされているという事実が見えてくることでしょう。ものの本当のあり方(法・真如)を見、知るということ、そのことこそ私たちを迷いから目覚めへと転換させるものなのです。その「もののあり方を正しく見る能力」それが「智慧」といわれるものです。仏とはその智慧を完全に得たものに他なりません。
智慧の眼が開き仏と成られた釈尊は、このように迷いから目覚め、真実のあり方に生きることこそ、この貴重な人生を最も大切に生きる生き方であると確信されました。そこにこそ私たちの究極の幸せの実現があるからです。しかし、人々はそれに気づかず、誤った生き方を本当の生き方だと思いこんでますます苦悩を増しています。目覚めたものとして、この状況を見過ごしにできるでしょうか。誤りを気づかせ正しいことは何であるかを教えて、同じく目覚めた人にさせてゆかねばなりません。その実践は「やらねばならない」ことよりも「やらざるをえない」悟れるものの必然的な自発的活動であるというべきでしょう。悟りを得て仏となられた釈尊は、まもなくそのような動機から鹿野苑での「四諦八聖道」の教えをかわきりに、八十歳で亡くなられるまでの四十五年間、仏に至る道をことばを通して私たち凡夫に説き示されたのでした。ここで初めて仏になる道が私たちに顕らかにされ、設けられることになりました。教えて人を仏に導くということ、それが仏教における「救い」ということです。また、他に利益を与える意味において「利他行」とも言われます。はるかな過去から誤り、迷い続けている私たちが自らの力で先入観を破り正しくものを見ていくということは至難のことです。釈尊の教えによってはじめて気づくことができるのです。釈尊の教えを聞き、ものの本当のあり方を見る智慧の眼を開いていくということこそ、仏教を学ぶということ、あるいは仏道を歩むということです。