今月の法話 平成27年7月

仏法に耳を傾けたとき ありのままの自分に気づかされる

今の時代は何でも無駄を省き、手間をかけずに生きていけるような時代を築いてきました。文明の発達というのはそのようなものなのでしょう。文明の主人はそれを創り出した人間でなければなりません。いつもそのためには文明を人間が監視できる必要があります。しかし今の社会では行き着くところまで行ってしまい止まることなく、人間の思いとは別に効率と経済性に振り回され、逆に文明に人間が支配され文明が人間の上に君臨しているようですね。行き着くところまでいかないとそのような失敗に気づかない、しかし失敗に気づけばまだ良い方でありまして、失敗にも気づかない状態が生まれてきています。失敗しても埋め合わせるための便利なものがすぐに出来ます。百年前に自動車が発明され「何て便利なものか」と、誰しもが自動車を欲しがりました。歩くことがなくなり、運動不足により足腰が弱くなってきます。

しかし人間は車の運転を止めようとは思いません。その代わりに足腰を鍛えるために健康器具を使おうとします。そのように失敗を失敗と気づかせないような仕組みが出来上がっています。車が悲惨な事故を起こしても、飛行機が落ちても船が転覆しても文明の便利さにはかなわないのです。おかしな事と思ってもそれを止める働きにはならないのです。

それは機械ばかりでなく人間にも向けられます。不合理・非効率というだけで人間が部品化され、必要のない人間は排除され捨てられていきます。しかもそのことが常態になり、不思議でも不条理でもなくなっています。おかしいという声も聞こえてきません。景気回復が叫ばれますが、今の私たちの思いのままでは回復しても、不条理さは戻りません。人間回復はならないと思うのです。景気回復を叫んでも人間としての思いを回復させる人間復興を叫ぶ人はほとんどいません。今のままでは例え景気が回復しても格差がひろがり差別感は強まると思います。フリーター。ニート・非正規雇用、使う方も使われる方も仕事に対しても責任をとらない仕組みですね。本来、人を使うと言うことは大変な責任が伴うことです。理不尽に使い捨てるのは許されることではありません。しかし今はそのような事が平然と当たり前のようになされます。人を大切にするよりモノ、お金の方が大事なようです。しかもその事が当然となり使う方は切り捨てて当たり前、使われる方も切られても何とも思わなくなっています。

己の都合で何でも自分に有利なように考える、この心を仏教では自我心と言います。人間の根っこには驕慢、邪見が満ちています。しかもこの心は「臨終の一念まで消えず・・・」であります。この心を持っている自己を見いだされ、痛み、恥じられたのが親鸞聖人でありました。この悲しみ痛みの声さえも今は聞こえません。格差もあって当たり前、負けた人間は弱く努力が足りない、落ちた人間の「自己責任」の一言でかたづけられます。何かおかしいとは思いませんか。この「おかしい」とおもう感覚を大事にしてほしいのです。何かおかしいと思う感性は大事です。今この感性を麻痺させるシステムがそこここにあります。しかしそれは誤魔化しであって真の解決にはなりません。紛らわしはやがて孤立し、どうにもならなくなります。今の私たちは真実と「向き合う」事ではないでしょうか。辛いことなのかもしれません、切ないことなのかもしれません。しかし真の解決はそれしかないのです。「私をごまかせずにありのままに生きられたら・・・・」


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