今月の法話 平成27年1月

仕事が終われば おうちに帰る いのちが終われば 浄土に還る

世界中どの宗教を見ましても、まず祈らない宗教はありません。日本でも昔から祈りが宗教の本質としてとらえられてきたようです。祈る代償として、神や仏からそれなりのものをいただく、それが宗教と思われている方が多いのでないでしょうか。

そこでは祈りの強さ、信仰の深さそれによって、神や仏から与えられるものも、当然変わってまいります。深い信仰には良いもの、浅い信仰にはそれなりのもの、その信仰、祈りさえも、供え物で計られたり、志で計られたり、様々なようであります。

貧・病・争の解決が、戦後間もない頃の日本人の目標でした。これを解決するために戦中、戦後にかけて雨後のタケノコのように新興の宗教教団が生まれてまいりました。

それらの共通点は、現世利益的な宗教、つまり自分に都合の良いように祈る宗教がほとんどでありました。幸福追求のための宗教と言ってもいいでしょう。逆から言いますとこれを信仰しないと、『不幸になるぞ』というような、脅迫じみたものになってきます。

結構こんなことで悩まれている方がおられるようです。一度このような宗教に入信いたしますと、麻薬のようなものです。貢ぐにいいだけ貢ぎ、世間も何もかもが見えなくなり深みにはまっていくばかりです。幸福追求の手段としての宗教でしょうか、『御利益がある』『病気がなおった』『得になる』これが宗教の役割だとは思っておられないでしょうか。

御利益がなかったら今度は宗教のハシゴです。あちらの神様、こちらの神様、はては幸福の壺、占い、そうしてたまたま効き目が出ればその宗教にのめり込み盲目的な信仰に陥ってしまいます。何も心配しなくても大丈夫です。あなたは必ず死にます。必ず病気にもなります。仕事がうまくいかなかったり、家族と不和になったりすることもあります。人生は、そんなにうまくいかないのが当たり前なのです。

宗教を自分勝手な幸福の手段としての道具としてはいないでしょうか。もしそうであるならばあなたは浄土真宗の教えとは遠い位置におられます。宗教をそのような手段にいたしますとますます『自分自身』と離れていきます。蓮如上人はその心を『もろもろの雑行雑修自力の心』としめされました。自分勝手な『我が祈り』がどれほど多くの他のものに傷をつけているかに気づかないのです。考えてみますと私たちの『祈り』とはいったい何なのでしょうか。自分の身勝手な欲望の満足のための祈りにしかならないようです。そんな『祈り』の不純さを親鸞聖人は見逃されなかったのです。実は、私たちの『祈り』は『我執』そのものです。

浄土真宗の信心を親鸞聖人は『真心』と言われました。しかしそれは私たちが持つことの出来ないものです。トラワレにまみれた私がどこに真心を持てるでしょうか。この『真心』は、仏こそが持たれているのです。そこに『祈らずとも』、仏より『願われている私』を聞かされていくのが浄土真宗の聞法なのです。この娑婆世界の歩みを終えたときには、いのちのふるさと、浄土へと還る道がしめされているのです。


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