今月の法話 平成26年12月

救われたいと願わなくとも 救って下さる阿弥陀様

人間とは多少なりとも向上心というものがあります。三歳児位からもう塾通い、お習い事とそして、お受験と、向上心か、見栄か解りませんが、熱心なことであります。ところで、仏教を聞かれる方にも、人間向上を目標にされる方が多くおられるようであります。仏教を聞いて立派な人間になれるように、また、悩みを助けてもらうように、と思われる方々がおられます。そのような方々は仏教を聞かれますとほとんどが、『今日は良い話を聞かせてもらった、目からウロコが落ちた、人格向上に役に立った』と言うような意見が多いようです。そういう方もおられれば、自分の生き方と照らし合わせ、自分の勝手な都合で聞かれる方もいらっしゃいます。自分の思いと一致すれば『あ〜いい話だった』、合わない話をすれば『何だ!今日の講師の話は・・・』と、なります。

ひょっとして真実は耳の痛い話なのかも知れません、いや耳の痛い話こそ真なのでしょうね。

耳障りの良い話の虚偽性にどれだけの人が裏切られたことでしょう。何回欺かれても騙されても、素直と言うのか、人間の弱さなのか、なかなか懲りないようであります。あまりにも善人すぎるのかもしれませんね。勿論、人間関係の潤滑油としての多少のお世辞ぐらいは良いのですが・・・・他人ならば耳の痛い話は一遍で終わりでしょう。しかし真の親ならば真剣に何十編、何百回とすることでしょう。(万に一つのあだも無い)という親の説教の真実性をあらわす言葉であります。

子を思う親心とはそのようなものでありましょう。実は浄土真宗を聞くと言うことは人格向上の為に聞くのではないのです。自分を明らかにするために聞くのです。『私の真実は』『私の内なるものは』そのことを聞くのです。浄土真宗を聞かれたからといって人格が向上したというのは甚だしい思い上がりです。逆に人間として《お恥ずかしい私》を聞かされるのです。多くの方々は多少の反省の心がありましても、『俺もそうだがあいつもだ』とか『人間だからなぁ』などと自分自身をごまかして生きているように思えるのです。その自分自身を冷徹又露骨ななまでに見られたお方が、宗祖親鸞聖人でありました。

『凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず』と自らの心をさらけ出されています。又『罪悪深重』『煩悩具足』『心は蛇蝎のごとく』『一生造悪』と自らを仏法に照らし出され赤裸々に告白されたのであります。『人間失格』の自分を知らされたからこそ、逆にそのような『人間失格』の『私』を救う念仏の教えに出遇われ、よろこばれたのであります。仏法を聞いてましな人間になるのではなく、聞いたことによって『少しもましな人間になれなかった《失格の私》を知らされ、思い上がりを打ち砕くものこそが仏法であります。

そんな情けない私の姿を知らされ、願わなくとも救って下さる阿弥陀様と受け止めていくのが浄土真宗なのです。

人生の様々な問題を解決することも大切ですが、私みずからの根本を問題にする大事さを思います。


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