今月の法話 平成26年3月

大切なものを失わなければ その大切さに気づけない私

私たちの人生は、良いことずくめはそうある事ではありません。どちらかと言いますと、私たちの人生は苦しく、悲しい事が圧倒的に多いようです。「苦しきことのみ多かりし」が、人生の実相のようです。

昔の人は「二ついいこと、はて、ないものよ」と言いましたが、うまいことを言ったと思います。これは「いいことずくめの事はない」ということでしょう。単純なことかもしれませんが、これは人生の真実です。昔と比較をすれば、今は万事に便利な世の中となりましたが、便利と感じるのは、それ以前の不便な生活を知っているからなのでしょう。便利な世の中に生まれた方々は何が便利なのか、不便なのかも解らないのかもしれません。水くみも、井戸からポンプ、そして水道へ、ひねったら水が出たうれしさを、私も思い出します。

テレビが出てきて毎日、動画が茶の間で見られる、ランプが電球になり、自分の足で歩いていたのが、自動車で移動するようになり、ほうきが掃除機に代わり、タライが洗濯機に代わった、タライなどはもう死語になってしまいましたね。肉体的には何と楽になったことでしょうか。しかしよく考えますと、それら得たものの大きさと引き換えに失ったものの大きさに気づかされます。「二ついいこと、はてないものよ」は、「一得一失」ということであります。

機械でこの原稿を書いていますが、手でしっかりと漢字は忘れ書けなくなってしまいました。

車の発達は歩くことを忘れさせました。現代病と言われる糖尿病患者数はその国の車の所有台数に比例するという統計まであります。携帯電話は日本の文化さえも変えてしまったようです。それらの便利なモノが私たちの生活を変えてしまったのは確かでありましょう。

「昔は良かった」などと嘆いてみても、今の便利さを望んだのは私自身なのです。便利さを手に入れた代わりとして、失ったモノの大きさを思います。今日都会では、人間も、植物も「自然」に生きる環境にはないようです。以前「四日市市喘息」の問題で街の職員が「スモッグの下でビフテキを食べるか、青空の下で梅干しをしゃぶるのか、どっちを選ぶのか」と問うた事はいまでも私たちの大きな課題のようです。得ることのみを考えて、失うモノの大きさを考えなかったのかもしれませんね。今の日常を昔に戻す事などは出来ないことでしょう。

私の持っている欲望の深さ、これは「煩悩の深さ」でもあります。

しかしその私の「煩悩の深さ」に気づいていくことが、今、求められているように思えるのです。「私が生きている」ことが世の中のためになっているなどと考えることは、人間の傲慢さなのかもしれません。頭が下がり、謝して生きていく以外に人間が人間として生きる道が無いことを仏法は気づかせます。「生の充実のみが幸福である」という安易さが、どれだけ多くの犠牲に成り立っているか、失われたモノにもっと目を注げたらと思いますが・・・・・


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