また会いましょう また遇いましょう 南無阿弥陀仏

以前「赤信号みんなでわたればこわくない」という流行言葉がありましたが、以前よりもこの事は強くなっているようです。しかし所詮人間は孤独な存在です。『無量寿経』に「人在世間愛欲之中。独生、独死、独去、独来。身自当之、無有代者」(人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る。身みずからこれを受け、代わる者あることなし。)という一節がありますが、まさにわたし達はそれぞれがこの世にたった一人で生まれ、またたった一人で去っていかなければならない存在です。この孤独、ひとりぼっちというところに耐える力が不足しているように思えるのです。

携帯電話をいつも手放せない、アルコール依存、パチンコ依存、などの症状は孤独が辛いのだと思います。

「あの人が言ったから」とか、「みんながしていることだから」とか、責任を「みんな」にかぶせることも多いですね。そんなことですから、何かがあっても責任の取り方がおかしくなってきているようです。人間は孤独な存在というのが仏教の見方であります。先人の逞しさは誰もがこの孤独に耐える強さを秘めていた事です。
釈尊も、親鸞聖人も、芭蕉も、種田山頭火も、兼好法師も、誰もが孤独との背中合わせに生きられています。逆に孤独を耐えるというより、その孤独こそが自らを磨き上げる場として考えられているのだと思います。孤独は辛いことでしょう。悲しいことでしょう。

「孤独死」などといいますと、やりきれない思いにおそわれます。
「ひとり」という恐怖は、誰しも容易に想像できるでしょう。しかし先哲はよく敢えて「世捨て人」として、自らを鍛え上げていきました。それは、自己を観じる最も尊い時間であったのでしょう。人は集団的な生き方をすれば「孤独」の苦しさからは逃れられるかもしれません。しかしその中に埋没すればするほど「孤独」は恐ろしくなります。

「プチうつ」になったり「落ち込み」が激しくなったり、「みんなと合わせる」生き方が楽に見えてきます。しかし約束します。 そのような生き方は、何ら「孤独」の解決にはならないことを・・・いやもっとひとりになった時には孤独感が増すことを・・・「ひとり」を友として生きていく覚悟が求められています。そんな中でも、どんなときにも見捨てずに、呼びかけずくめの阿弥陀様の「どんなに世間が冷たかろうが、どんなに他人から相手にされまいが、私だけは決して離さずに見捨てずにはおかない」と、呼びかけられる大きな慈悲心に、気付かされるのが「南無阿弥陀仏」であります。

孤独であって孤独でない世界を逞しく歩めたらと思います。上記の言葉は「南無阿弥陀仏」は決してあなたを離しません。私が忘れても、背いても、いつもお呼びかけ続けです。
孤独の中に身を置きながらも、高らかと人生の賛歌を謳いあげた先人たちの心に学びたいものですね。


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