私たちにとって、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すとはどういうことでしょう。
以前、ある御門徒のお宅にお参りにした時のことです。
読経の後、お家の方と雑談をしていると、「うちの高校生になる孫娘は偉いのですよ。毎晩寝る前に、必ずお仏壇の前に座って、一生懸命にお念仏を何度も称えるのです。」と自慢げにおっしゃるのです。
そこで、「偉いですね。」と褒めたところ、「そうなんです。でも、その姿を見られたり、明かりを点けたりすると、効果が無くなるからと、暗闇の中でお念仏しているのですよ。」と、段々と雲行きの怪しくなる話しとなってきたことがありました。
この場合のお念仏は、何か自分の願いを叶えてもらうための道具か呪文のように思っているのでしょう。
そして、この思いでお念仏を申している人も、多いように感じます。
しかし、浄土真宗にとってお念仏を申すことは、この私の願いを叶えてもらうためのものでは決してありませんね。
「南無阿弥陀仏」は、本願の通りに間違いなく働き、私たちをお救い下さる仏さまそのものです。
本願とは、「全てのものに南無阿弥陀仏を称えさせて必ず仏にする。」という、仏さまの誓いであり願いのことです。
そうして、この「無無阿弥陀仏」は、仏さまの名前であると同時に、私たちを間違いなく仏にして下さる力を持った働きそのものでもあります。
「南無阿弥陀仏」という仏さまは、私たちを救うために、間違いない力を持って、「言葉」となって下さった仏さまと表現してもよいでしょう。
この「南無阿弥陀仏」の本願を素直に受け入れ、お念仏を申すことは、仏さまの願いの通りの働きの中に生かされていることであり、取りも直さず、それはそのまま、私の口から「南無阿弥陀仏」という仏さまが現れ出て下さっていることです。


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