浄土真宗の教えに遇わせて頂いている私たちにとって、手を合わせるということは、阿弥陀仏の救済を素直に信じ、その救済に間違いないと御恩を喜ぶ、お礼のお念仏と共になされるものです。
 阿弥陀仏の救済を素直に信じるということは、「救われようのないあなただからこそ、救わずにはおかない」という、如来の間違いないお心と働きを、そのまま受け入れるに他ありません。
 この「救われようのないあなた」とは、自分では決して気付くことのできない、罪深く重い本当の私の姿をいわれるのです。
普段に生活する上には、善い人もいれば、悪い人もいます。
 そして、新聞の三面記事に悪事をはたらき捕まった人の記事などが出ると、「なんて悪い人がいるものだ」と憤慨し、それに対して、自分は決してそのような悪いことはしない善人であると思い生活している人がほとんどでしょう。
 しかし、仏教徒として、生死の迷いから離れるという立場において、自分を見たならばどうでしょう。
 自分の心の奥底にあるものは、財を求め、地位名誉を求め、異性を求め、そして、その欲望を満たすためには、愛する家族、親しい知人さえも裏切るような利己心しかない、実に罪を作り続けるしかない恐ろしいものです。
一つの欲望がかなえられても、それで終わりではなく、次から次へと拡大して限りがない。
 かなえられなければ、それは怒りとなって現れ、愛するものまでも焼き尽くすような苦しみを与えてしまう。
 悟りへの道を歩むどころか、自他共に傷付け合う恐ろしい姿しかありません。
それに気付くこともなく、善人と思い生きているのが、私たち人間の姿です。
その私に、本当の姿を知らせ、その救われようのない者だからこそ救わずにはおかないという、如来の大悲に手を合わせずにはおられません。


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