自分にとって都合よく生きたいと思いながらも、思い通りにならず苦しみ、結局はその苦しみの内に死んでいくしかないのが、煩悩まみれの私たちの偽らざる姿でしょう。
 その姿を悲しまれ、どうあっても救い摂らずにはおかないと、願いを起こして下された方が阿弥陀仏です。
 その願いとは、私たちには何一つ求めずに、「南無阿弥陀仏」の名号一つを与えて必ず救うという、五劫という途方もない長い時間、仏がひと時も休む間もなく考え抜かれて(五劫思惟され)出された「本願」です。
この意味するものは、仏をもってしても、五劫という長きにわたり考え抜かなければ、救う方法が見つけられない程、煩悩まみれの私たちは救われ難いということであり、私たちの重ねてきた罪が深く重いということです。
しかし、名号一つ与えて救うという勝れた「本願」も、願いのままで終わるならば、それは絵に描いた餅と同じで、これまた空しい只の願いに終わってしまいます。
 そこで、「本願」を空しい願いに終わらせないため、仏は兆載永劫の御修行をなされました。
兆載永劫というのも時間の長さであり、私たちには想像も付かない永遠なる長さですが、この時間の長さも私たちの救われ難さを意味するものであり、これから先も永遠に救われようのない私たちということです。
 しかし、今現に「南無阿弥陀仏」として在られることは、罪深く重く、これから先も永遠に救われようのない私たちが、「南無阿弥陀仏」の名号一つによって必ず救われるという証明でもあります。
 私たちの救われる道は、仏から与えられる「名号」を素直に受け入れて、お念仏申す人生を歩ませて頂く以外にありません。


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