「勝ち組」・「負け組」ということばが、この頃よく使われます。このことばは結婚に関して言われ、それがセンセーショナルに扱われたために人びとの耳目に残ったのではなかったかと思います。女性が三十歳までに結婚できなかったり、相手が一定の収入を得ていなければ負け組とかと、大きなお世話だと言いたくなるような形で登場したように思いますが、意外にも「勝ち組」「負け組」はさまざまな場面で使われていまや普通のことばになってしまいました。考えてみれば、それは当たり前のことだったのでしょう。
 私たちは勝つ・負ける、強い・弱いなどと価値判断することが当たり前の世界に生きています。そして、誰もが勝者・強者になることを目ざして頑張っています。それがより良く生きることだと思いこんでいます。ですから負け組とレッテルを貼られたときには反発したり情けない思いをしても、他の事では一転して似たような基準で人を評価している事がほとんどです。そして、その矛盾に気づいてもいません。
 私たちはあらゆることで勝つことを目標にして生きていますが、不思議なことに勝った瞬間には喜んでも、次の瞬間には新たな不安が襲ってきます。喜びが大きいほど、それが破られたときのことが思われて不安が大きくなったりします。そこで安らぎを得るというのは至難の技といえるかもしれません。まことに人間とは厄介な存在ですが、そこにはたらきかけてくださっているのが阿弥陀如来です。
 さて、標題の「念仏に勝利者なく 落伍者なし」とはどういうことでしょうか。念仏とは、どういう意味なのでしょうか。
 念仏は日常語としても使われたりします。 
 「馬の耳に念仏」「空念仏」や落語には「小言念仏」という題の話もあり本来の意味とは全く違う使われ方もされています。また仏教語として使われるときにも、時によっては異なる趣で使用されます。
 しかし端的にいえば、念仏とは「南無阿弥陀仏」ということです。南無とは、「まかせる」また「まかせよ」という意味です.阿弥陀仏とは、仏さまのお名前です。これはサンスクリットといわれる言語ですが、意味は無限の智彗(光)と慈悲(寿命)をもつ仏ということです。仏の側からいえば、念仏とは「無量の智彗と慈悲の仏として、仕上げる者ここにあり」との仏の名告りです。「まかせよ。すくう」の喚び声にうなずいて称える私たちの念仏は、「あなた(阿弥陀仏)にすべてをおまかせ(南無)します」というこころです。
 日常の些細なことでさえまかせよといわれてもなかなかまかせ切れない私たちです。いらぬ心配をして、不安を増幅させています。まかせるためには、先ず相手を信頼しなければなりません。自他の分別のなかで、「我すぐれたり」の思い上がりが、身と心を苛んでいます。しかし、その思い上がっていることにさえ、私たちは気づけないでいます。
 聴聞は、賢くなるためのものではありません。知識を身につけるためのものでもありません。ましてや人生の勝利者になるためではありません。 
 お寺参りの帰り道に、よそ様の田んぼの草むしりをしている源左さんは声をかけられました。
 「よその田んぼの草取りなんぞしなくてもいいだろう」
 「おらの田んぼ、よその田んぼと、そんな細いことをいうなや。如来さんの目から見たら、みんな同じくかわいい田んぼじゃが」
 親の目から見たら子どもたちはどの子もいとしい「ひとり子」です。如来さまから御覧になった衆生は、善悪でも優劣でもなく一人ももらさず救わねばならぬ存在なのです。そこにはたらく念仏は、勝者・敗者の別なく、すべてが願われびと、すくわれびととしてあるとの喚び声です。二度と繰り返すことのないいまを、広く深く生き切る道が私たちの眼前に開かれています。


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