人生とは不思議なできごとの連続だと思います。なにごとかをして全くその反応が返ってこないことは、ほとんどありません。反応がないと思っているのは、十分に返ってきていることに気づけないだけではないかとさえ思えます。 そのことを仏教を開かれたお釈迦さまは、「縁起の法」として私たちに示されました。縁起の法というと、むずかしいことのように思われるかもしれませんが、すべてが関係性のなかで生起し、存在していることを明らかにしたものでした。そして、お釈迦さま以来数知れぬ人びとが、それぞれの多様な体験と思索を通して、そのことの真実性を実感してきたのではないでしょうか。
 ひとが生きるなかで切実に伝えたいと思うことの一つに、子育てのときの「人生の生き方」があると思います。しつけもそのひとつです。しつけとは、漢字で「躾」と書くようにそれを身につければ、そのひとが美しいと多くの人びとが思えることだったのでしょう。けれどもこのしつけを次代に伝えることは、並大抵のことではありません。価値観の多様化している現代は、なおさらにむずかしくなっているように思われます。まして、ものの考え方を伝えていくというのは、さらに困難になっています。
 親子といっても生きてきた時間が違います。まず決定的に違うのは体験の差です。生きてきた環境も違います.世代間の断絶といわれてきましたが、それは人類の歴史のなかで営々と繰り返されてきたことでした。
 それにも拘らず人びとは、願いをこめて子をはじめとして、人びとに伝えようとしてきました。何故でしょうか。それは伝えよう、教えようとしたことが無駄ではなかったと体験的に知らされるからではないかと思います。
 例えば親が子に何かを伝えようとして、素直に聞いてくれる子供はめったにいません。反発が返ってきたり、無視されることも決して少なくないのではないでしょうか。それでもめげずに伝えようと親はするのです。それは自分自身の体験があるからです。かつて親に反発した過去から知らされてくるのです。未熟な思いで反発していたみずからの愚かさに人びとは長い年月をかけて気づかされてくることが多いように思います。まさに断絶しようとした関係性に教えられてくるのです。かつて、ご自身の親に罵詈雑言を浴びせるような手紙をくださった方がおりました。ここまで書かなくてもと思って読んだのですが、数年たって親が亡くなったとき、葬儀の最中に泣き続けていて、火葬場では釜の前で遂に泣きくずれてしまった息子さんがおられました。
 全く同じことが伝える側、教える側にもいえるように思います。伝えるのだ、教えるのだと思い込んで頑張っていたのに、教えられ、伝えられていたのは自分自身の方であったと気づかされたことはないでしょうか。教えよう、伝えようとの思いが強いほど、結果としては教えられ伝えられていた事実に、より深く気づかされるのではないかと思います。これが人生の妙というものなのでしょうか。
 伝えること、教えることはむずかしいことです。先ず何よりも、その内容を熟知し、身につけていなければなりません。感性の異なる他人に共感されるなど、夢のまた夢なのかも知れません。しかし、その悪戦苦闘を通して、人びとは教えられてきたのではないでしょうか。育てようと努めてきたことで、育ってきたのは我が身であったことを。長い人生の果てにつかみ得るものも、そのようなものであるように思えます。


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