「年間三万二千人」。これは日本じゅうで昨年一年間で自殺した人びとの数(警察庁発表)です。交通事故で亡くなるひとは一万人以下で、それでも「交通戦争」といわれてきたのですから、その人数の多さには驚きと共に、何とかできなかったものかという悲しみと、何にもできなかった無力感に苛まれます。自死を選んでしまったひと、一人ひとりにきっとそうせざるを得なかった理由があるのでしょう。そして、そこには家族のひとりを自死というかたちで失ってしまった遺族の語り尽せぬ悲しみと切なさ、悔しさ、憤り、虚しさが凝縮した闇があります。「自死もまた生き方のひとつ」という考えもあるけれど、遺族としてのこされた人びとのこころの闇に触れたとき、「どんなことがあっても、死んではいけない」と、自死の淵に佇むひとに呼びかけたい思いで一杯になります。
 「絶望の底に沈んで、涙で枕を濡らした者でなければ、人生を共に語るに足らない」
 亀井勝一郎氏のことばですが、生きてくる過程でひとはさまざまにつまづきます。失敗をしたことがないという人は、まずいないでしょう。
 私もそう長くはないこれまでの人生を振り返ってみて、よく生きてくることができたなぁと思うことがあります。生きるか、自死するかの選択の違いは、そんなに大きな差ではないように私には思えてなりません。ほんのちょっとした違いが、生きる道か死ぬる道かと選択させるのではないかと思うのです。
 その一つが、「物語」を持っているかどうかの差異ではないかと私は思います。物語というとわかりにくいかも知れませんが、底抜けに自己を肯定する物語です。これは自分で作れるように思うかも知れませんが、なかなか作れないのです。親の一番大きな仕事こそ、物語を作って子どもに与えることではないかと私は思います。
 私の母は浪曲好きのひとでした。偶に浪曲口演が私の育った田舎にもかかることがありましたが、そんなときに母は幼い私たちを連れて行ってくれたものでした。そして、陽気な母は子どもたちの物語を作って、浪曲風に私たちに聞かせてくれたものでした。
 「ぼくのなにわぶしを聞かせて!」
 私たち兄弟はよくせがんで即興でうたう母の浪曲を聞いたのでした。それは、私たち子らの荒唐無稽な「サクセスストーリー」でした。母の膝下で私たち子どもたちは、母の演ずる浪曲風のうたを通して、底抜けに自己を肯定する物語を心の底深くに刻ませてもらったように思います。
 母が自覚的にしていたことなのかどうか、逝ってしまったいまとなってはわかりません。けれども、子どもたち一人ひとりを主人公にして物語を作り、私たち子らを喜ばせ、楽しませながら、聞かせてくれた歌そのものが、私たちに生きる意味を伝える「いのちの教育」であったと、いま頃になって気づかされています。
 浄土真宗とは、阿弥陀如来の本願を依りどころに生きる教えです。「本願を信じ、念仏申さば仏になる」教えであるともいわれます。さまざまな言い方ができるでしょうが、如来の本願とは何か。本願の主人公は誰か。それは、この「わたくし自身」なのでした。聴いていながら、往々にして私たちは主人公を阿弥陀如来にしてしまってはいなかったでしょうか。そうではなくて、如来はこの私を主人公にしたいのです。本願の心とは、その心いっぱいのおこころであります。


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