「仏教とは、何を説いているのですか?」
八万四千の法門といわれるほどの膨大な経典と論釈があり、その奥義を究めることは私たち凡人にはほとんど不可能に近いといわねばなりませんが、その教えの基本は何かと求めていくと、きわめて端的なことばに出遇うことができます。それは、「縁起の法」です。
 縁起の法こそ、釈尊のさとりの内容です。縁起とは、存在するすべてのものは他との関係のなかで生起し、また滅んでいくということです。法とは真理ということですから、これが世界の真理だと釈尊は覚られて、その内容を説かれたのが仏教です。
 ただ残念なことに、仏教のことばがその真髄に即して伝えられてこなかった例も多く、その代表的なものの一つが「縁起」ということばです。「縁起がいい」「縁起が悪い」という使い方そのものが、釈尊のさとりの内容とは全く関係がないもので、むしろ私たちの仏教理解を歪めかねませんが、この現実から私たちは出発せざるを得ません。
 縁起の法について釈尊の説かれたところを原始経典は次のように述べています。
「これあるによりてこれなし。これ生ずるによりてこれ生ず。これなきによりてこれなし。これ滅するによりてこれ滅す」
「すべては相依って存している。すなわち相依性である」
 この教法が中国に伝えられたときに、訳経者は「縁起」と翻訳し、いまに伝えられました。縁起が世界の真理であり、このことを本当に知ることが「さとる」ことであると釈尊は言われます。それは、「わたしが現れようが、もしくは現れまいが法として定まり、法として確立していることである」とも述べられています。
 ですから、仏教に生きる、あるいは仏道を歩むとは、この縁起の法にうなずいて生きることであるということができます。縁起の法を説く仏教では、絶対者を説いていません。こう言うと奇妙に思う人がいるかもしれません。
「阿弥陀如来は、絶対者ではないの?」と。
結論からいうと、阿弥陀如来は絶対者ではありません。キリスト教で説く唯一絶対の神でもありません。いわゆる我執煩悩に縛られて、自己の殻から一歩も抜け出せずに苦悩する「わたくし」に即して生まれた方が、阿弥陀如来です。救われがたい「わたくし」がいたからこそ、その「わたくし」を何としても救おうという如来の願いが生まれたのです。如来の本願とは、縁起の法そのものであるといえます。
 けれども、私たちは自己自身が迷っていると考えていません。迷いの中にいるのは他人で、その闇の中にいる他者を支えてやらねばなるまいと、「こころ優しき」人びとは考えているかも知れません。闇の中にいることにさえ気づけぬほどの深い闇のなかに、私たちはいまあるのではないでしょうか。
私たちのまなこには、最も近いものが最も見えにくいのかも知れません。私の生命体を支える無数の生命体があることを、ことばでは表現していますが、実感として味わっているでしょうか。今日の私を支える数知れぬいのちに想像力をはたらかせているでしょうね。
 今日を生きているから今日に出遇っている訳ではありません。
「いまに、事実出遇っているか?」
 いのちのはじまりからの私への問いかけであります。


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