理想的な父親像・母親像として古来から「厳父慈母」ということばが伝えられてきました。国語辞典を見ますと、厳父とはしつけや態度の厳しい父親とあります。また、他人の父親を敬っていうことばと述べられています。それに対して慈母とは、やさしく愛情にあふれた母とあります。また、母親をほめていうことばとも述べられています。これらの記述を通して、厳父や慈母ということばそのものの中に、父親・母親のあるべき姿を尊敬をこめて言っていたことがわかります。
 私自身も二十歳過ぎまで父親の前で胡座をかけませんでした。食事のときに、父よりも先に箸を持つことは許されませんでした。
 「靴を脱いだら、出船の形にそろえて家に入りなさい」
 いわゆる躾にうるさい父親でした。厳しい眼と声で、言うことをきくように求められ、時には手が飛んできました。晩年にはうるさく言うことはなくなりましたが、眼を通して教えようとしていたものは一貫して同じであったと思います。
 それに対して母親はいつも優しく笑っている顔を想い出します。
 「無理もない。無理もない」
 そう言ってくれることばが、母亡き後も聞こえてくるようです。
 しかし、厳しい父に優しさはなかったのでしょうか。生きているときに思うことがなかった父の優しさに、別れてから愚かな私は気づかされています。躾の一つひとつが、自分自身と他人を思いやるところから来ていたのだと知らされました。子どもに胡座をかくなといっていたのは、背中が丸くなって姿勢が悪くなってしまうのだと教えたかったのでしょう。父より先に箸を持つことを叱ったのは、目上の人を大切にせよとの教えだったのでしょう。靴先を向こうにそろえて脱ぐのは、出て行くときにさっと靴の中に足をすべらせられるようにとの気配りなのでしょう。靴のかかとを踏むと、「靴が泣いている」と叱られたものでした。しつけとは、躾と書きますが、身を美しくすることがしつけの本質なのでありましょう。
 慈母とは優しさだけなのでしょうか。ガキ大将だった私は、よく喧嘩をしてひとを泣かせました。ゲームをして勝ち続ける私を見て母は後ですごく叱ったものでした。
 「負けることも勝つうちに入ることを知らなければ、本当に強くはないのよ」
 特に私よりも明らかに弱いと思う人と喧嘩しているのを見ると、厳しい叱責の声を聞かなければなりませんでした。
 厳しさのなかに優しさがあり、本当の温かさとは厳しさを包むものなのではないでしょうか。厳父慈母とは、対立する二人の親の姿ではなく、まさに厳しさと慈しみがそれぞれを補完し合って、子は育てられていくことを私たちに教えているもののようであります。
 「弥陀・観音・大勢至
 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ
 有情をよばうてのせたまふ」
 観音菩薩・勢至菩薩はともに阿弥陀如来の脇士で、そのはたらきを象徴して私たちに示してくださっています。すなわち、観音は慈悲の象徴であり、勢至は智慧の象徴です。勢至菩薩が動くとき、大地は震動すると説かれています。「お前の生き方は、間違っていないか」と糾しているのです。しかし、勢至菩薩は観音菩薩に比べて慕われてはいません。私どもをすくおうとはたらき続けてくださっている阿弥陀如来のはたらきの象徴としての観音・勢至菩薩を、いま一度よく味わってみたいものであります。


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