一休さんのとんち話のなかに出てくる有名な話があります。曲がりくねった松の木を、まっすぐにする方法はないかと問われた一休さんが答えた話です。
 「それは簡単です。曲がりくねったまんまに見ていくと、松の木はまっすぐになります」
 一休さんの実話としていいものかどうかの詮索は置くとして、この話から私たちは多くのことを教えられるように思います。
 曲がった松の木をまっすぐに見る方法を、一休さんはいとも簡単に導き出します。
 「曲がったそのありのままを見つめたら、まっすぐに見える」
 一休さんの答えの背景にあるものは、仏教のものの見方です。まっすぐにといわれたら私たちは無理遣りに真っ直ぐにしたくなります。そうしないと、まっすぐになるとは思えません。
 しかし、よくよく考えてみたら曲ったなりに受け容れてみることができたら、まっすぐに見えてくるのではないでしょうか。地球上にいる限り、私たちが直線と考えているのは曲線だと聞いたことがあります。部分で見ると直線に見えるけれども、地球がまるいのですから、それにそってまるくなっているというのです。
 狐につままれたような話をしてしまいましたが、仏教は「ありのままに見る」ことを大切にしてきました。仏さまとは、真実ありのままにものごとを見ることのできる方です。仏道を歩むとは、この私が仏さまになる(さとる)ことを目ざしているのですから、仏道とは「ありのままに見る」ための道であると言ってもよいでしょう。
 ありのままに「わたくし」を見たら、どんな「私」が見えるでしょうか。道元禅師のことばに、「仏道とは自己を習ふなり」とありますが、これは仏教全般にいえることばです。
 浄土真宗は、聴聞を大切にしてきました。仏法聴聞こそが浄土真宗です。では、「聞く」とは、どういうことでしょうか。
 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり(『教行信証』信文類)
 親鸞聖人は端的に示してくださっています。阿弥陀如来が十方の衆生を何としても救いたいとの願いをなぜ起こされたのか、その顛末を聞くということだというのです。聴聞を通して知らされてきたものは、「煩悩具足」「罪悪深重」「地獄一定」の私であったと聖人は述懐されています。救いがたい私がいたからこそ、阿弥陀如来の本願力があったのだと述べられています。救いや成仏の障りになるはずの煩悩が、如来の願いに出遇う尊いご縁でもあったと味わっていらっしゃいます。
 罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし(『高僧和讃』)
 聖人ご自身の自己探求によって「罪悪深重」と知ったのではありません。
 「煩悩具足と信知して」とおっしゃっていますが、知ったのではなく知らされたというのです。信知とは、如来の側から届けられた智慧でもあります。
 私の眼や心で知った「私」はたかが知れたものでしょう。浄土真宗では、「はからいを捨てて唯、聞け」と言われてきました。はからいを捨てて如来の心(本願)に聞いてみたら、ありのままの私の真実が知らされて参ります。


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